STORY

時の年輪 ― 広島の丘からパリの壁へ

2枚の大きな油絵を前にしている。1枚は、尾道水道を見下ろす高台にある寺院の塔を描いたもので、壁にもたれかけるように床に置かれている。もう1枚は壁に掛けられており、東京の雨の夜を印象的に描いた『駅』という作品だ。

Eki by Seiji Fujiwara

「自由に描けるようになるまでに何年もかかりました」と語るのは、画家・藤原清二。「最近は、絵を描くことを音楽を演奏するようなものだと感じています」。たしかに、『駅』にはジャズの即興演奏のようなリズムと雰囲気が漂う。.

これらの絵が飾られているのは、「娯楽室」と名付けられた遊び心あふれる空間。実はここ、広島県府中市の化粧合板会社「広島銘木産業(ヒロメイ)」の社員食堂でもある。

家具の町・府中で生まれたヒロメイ

清二は、叔父とともにこのヒロメイに人生の大半を捧げてきた。

府中には、およそ300年にわたる家具づくりの歴史がある。地域には桐の豊富な供給源があり、これが木工の主要な素材となった。さらに、自然乾燥に適した気候条件も整っており、木材の反りが最小限に抑えられ、精緻で耐久性の高い家具を生み出すのに最適な土地だった。この地が「良質な家具の産地」としての評判を築いたのも、こうした背景があってこそである。中でも特に幸運だったのは、府中が歴史ある「石州街道」と芦田川に面していたことだろう。これにより、木材や手工芸の家具を全国に向けて運ぶことができた。

第二次世界大戦後の高度経済成長期には、「嫁入り道具」としての家具セットが広く普及し、府中家具は全国的な需要を獲得するようになった。新婚家庭のために、実家から高級な桐の箪笥やドレッサーなどの家具が一式で贈られる風習が広まり、桐製の美しい家具は中流階級にとってのステータスシンボルとなった。それに応えるかたちで、府中の家具産業も急成長していった。

1976年にヒロメイが設立された時、当時22歳だった清二は、装飾用の天然木突板を製造し、大型家具の表面に貼ることを事業の出発点とした。しかし時が経つにつれ、婚礼家具セットの需要の減少や、よりコンパクトな居住空間への移行といった変化を受けて、ヒロメイはホテルやショッピングセンターなどの商業施設の壁や天井に使われる突板の製造へと、事業の重点を移していった。

競争が激しくなる中、二人は成功のために尽力した。多くの日本の中小企業と同様、ヒロメイの強みは、細部にまでこだわる姿勢と品質への妥協なき追求にある。北海道の原木市場には毎月出向き、一本一本目利きをして、0.25ミリの薄さに削るのに適した材を厳選する。丸太は購入から3カ月以内に製材される。これはスライスを効果的に行うためであり、紫外線の影響を減らし、変色を防ぐ目的もある。そうして得られた紙のように薄い突き板は丁寧に乾燥させた後、軽量の合板に貼り付けられる。その全工程を、最終製品に影響を与えかねない傷やムラがないか、熟練のスタッフが目を光らせながら進めていく。

そんな日々の中でも、清二は絵筆を置くことはなかった。

横から見えてくるもの

ヒロメイの敷地を案内してもらっていると、ある簡素な休憩スペースが目に留まった。即席の屋根の下に、タイヤに載せられた黒い巨木がテーブルとして使われ、周囲を木製の椅子が囲んでいる。実はこの木材、清二が尾道水道から引き揚げたもので、年代や出所は不明だが、おそらくかつての船着場の一部だったという。

これは、今でいう「アップサイクル」の一例だ。ヒロメイでは廃材をなるべく出さないよう努力しているものの、それでも大量に捨てられてしまう現状に、清二は心を痛めていた。輸入された丸太のうち、使用されるのは三分の一ほどにすぎないことも珍しくないという。

会社のバトンを従兄弟の藤原啓記に渡す頃、清二は自身の創作とヒロメイの事業とを結びつける新たな道を見出した。それは、ヒロメイの本業を“横から”見るという発想だった。

「工場のあちこちにある端材を集めて、ブリコラージュ(寄せ集め)で装飾作品にするようになったんです」と清二。こうした作品の一部は工場の中央にある高い壁に飾られており、清二が好んで手を加えず、無塗装のまま自然な状態で鑑賞されることを意図している。「海でお気に入りの石を見つけて喜ぶ子どものように、木にも一つひとつに価値がある」と彼は言う。

捨てられた端材に刻まれた年輪に惹かれた清二は、木の命の痕跡をアートとして表現したいと考えた。通常の突板は木を縦にスライスすることで木目を揃えるが、彼は職人に挑戦を促し、年輪や節をそのまま残すよう、端材を横からスライスさせた。

日本ではこうした「木の個性」を前面に出すデザインは“やりすぎ”と捉えられることもあるという。しかし海外ではその自然美がより評価される。実際、ニュージーランド産ラジアータパインを横方向にスライスし青く染めた壁面作品『Radiata Blue』は、2021年のサロン・ド・アール・ジャポネ展でグランプリを受賞した。

Radiata Blue by Seiji Fujiwara

この予想外の反響は、芸術家としての清二だけでなく、後継者・啓記にとっても新たな気づきとなった。

バトンを受け継ぐということ

藤原啓記は、かつての高度経済成長期に創業された家業を継ぐ、いまの日本の新世代経営者のひとりだ。彼のように、創業者の理念や技術を大切にしながらも、厳しさを増す市場環境の中で、独自の方向性を模索する後継者は少なくない。

啓記自身、当初はヒロメイを継ぐつもりはなかった。製造業の町である府中市だが、その一方で人口は減少し、若者たちが外の世界を夢見るような、いわば「出たくなる田舎町」でもある。啓記も例外ではなく、夢は音楽の道に進むことだった。20代前半のほとんどを広島や岩国のライブハウスでロックンロールを演奏するハウスバンドの一員として過ごした。

その後、ヒロメイでの手伝いはあまりうまくいかず、数年間は造船会社で働いた。しかし父親から「ヒロメイを継いでほしい」という明確なメッセージを受け、木の魅力を再発見する中で、2022年、ついに家業の舵取りを任されることになる。

ヒロメイの主力製品は突板であることに変わりはないが、パリでの『Radiata Blue』の好評を受けて、「木の持つ可能性を最大限に引き出す」という会社の理念をよりアート的なアプローチで表現することに意義を見出すようになる。

現在は、第一線を退いた従兄弟清二の助言を受けながら、年輪や節を美しく見せる横スライスの技法を活かし、新たな手作り装飾品の制作に向けて、工場内に小さな工房を立ち上げた。

アートから製品ラインへ

清二が引退したのち、10年以上ヒロメイで働いてきた寺岡良幸氏がこの工房の責任者に就任。地元の高校を卒業したばかりの若手2名も加わり、少人数で新たなものづくりに挑戦している。

寺岡氏自身は「芸術的な感覚は特にない」と謙遜するが、清二は「頭で考えるよりも、感性を信じて進めてみて」と背中を押す。作品の試作品は、20名近くの社員に見せてフィードバックを得ながら、幅広い視点を取り入れ改良を重ねていく。

突板として使われる木の削り出しは機械で行うが、それ以外の工程はすべて手作業。とくに、薄くて壊れやすい木の削片は、和紙に丁寧に貼り合わせていく必要がある。この作業はアイロンで行われ、ミリ単位、時には0.1ミリ単位の精密さが求められる。わずかなズレが後工程で大きな修正につながるため、それを避けることが日々の課題となっている。

また、鉄分を含むなど、木それぞれの特性に応じて適切な染料や塗料を選ぶ必要がある。

製品化はまだ開発段階であり、試行錯誤の連続だ。寺岡氏は清二とやり取りを重ねながら、将来的な量産化に向けた製作マニュアルを整えている。単調だった従来の作業から一転、今は若手の指導にも熱を注ぎながら、創造的な仕事を楽しんでいるという。

地域の彩りを添えて

ヒロメイの壁掛け作品シリーズには、木製のおちょこ、屋根瓦、風車など、日本の伝統的なモチーフからインスピレーションを得たデザインが並ぶ。その控えめな色使いにも日本独特の美意識が感じられ、最終仕上げは地元の高級家具製造業者が手を貸す。現代的な空間に自然の要素を加える、美しいインテリアアイテムだ。

最近では、地元・福山市の天然藍染工房と連携し、藍染めを試みている。試作の結果は上々で、「ジャパン・ブルー」と称される藍色が、木の年輪や節に柔らかく染まり、府中の家具文化と福山の染色・デニムの伝統を美しく結びつけている。

ヒロメイ、ついに主役へ

これまでヒロメイは、日本のものづくりを支える「縁の下の力持ち」のひとつだった。家族経営で、高い基準を自らに課し、それを何十年にもわたって維持・進化させてきた企業。名のあるブランドが使う素材を支え、その価値を裏側から築いてきた存在である。

音楽家として活動していた頃を振り返りながら、藤原啓記は、本当はバンドのフロントマンであり、ボーカリストになりたかったのだと打ち明ける。いま、父の築いた礎と、清二から受け継いだ芸術的な感性を基盤に、Hiromei はついにスポットライトを浴びる時を迎えつつある。長年にわたり事業の礎となってきた木々の命を敬う装飾的なインテリア作品が、ヨーロッパをはじめ世界の人々の心に響くことを願っている。